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「コンビニ人間」 極端な人たちと社会のお話

 

 

村田沙耶香の小説「コンビニ人間」を読んだ。

「コンビニ人間」である主人公と、周りの人々が織りなす、少し変な物語だった。

 

 

・まず、コンビニ人間とは何だろうか?

 

この小説の主人公である「恵子」は、異常なほど合理的な人間である。

彼女は物事をとらえる際に感情など使わず、事象だけで判断、行動するのである。

例えば、彼女の幼少期のエピソードとして、小鳥が死んでいるのを見つけた際に「せっかくだから食べよう。」と母親に言った、といったものが描かれる。「かわいそう」と思い、お墓を作って、わざわざお花を供えるなどといった情緒的なことは全く思い浮かばないような人だ。しかしそんな彼女でも、社会に所属したい、社会の一員になりたいという意識は非常に強いようで、自分の異常さを認識しながらも、どうにかして社会の一部になりたいと考えている。

 

そんな人間である恵子は、大学入学後にコンビニでアルバイトを始めるのだが、「合理性」という点において、彼女とコンビニ、そしてコンビニの店員といったものがぴったりと合わさる。漫画も、食べ物も、ATMも、お菓子も、酒も、1つの場所に何でもそろっている現代社会の「合理性」の象徴としてのコンビニ。そして「いらっしゃいませ!」「ありがとうございます!」などと言葉では丁寧な接客をしつつも、それはマニュアルに従っているだけであって、無感情で機械的に働くコンビニの店員。

合理性の塊で、いわば生まれながらのコンビニ店員である恵子が、自分の居場所を見つける。彼女はコンビニでアルバイトとして働くことで初めて、「世界の部品になることができた」と感じた。それは、ある意味運命的な出会いなのかもしれない。こうしてコンビニ人間というものが生まれた。

 

その後、主人公は社会の一員として、また、コンビニ人間として働き、一時の安らぎを手に入れる。しかし、しばらくすると、社会は再び彼女を「異物」として浮かび上がらせて来る。「18歳、女子大生、アルバイト店員」だった彼女は、いつの間にか「36歳、フリーター、独身恋人なし、アルバイト歴18年」になっていた。

 

 

 

・コンビニ人間の周囲

 

その後も物語は広がりを見せ、主人公の妹やアルバイト仲間の変な男などが登場してくるのだが、自分がその中でも気になったのが、主人公の友人や妹といった人たちだ。

彼らは自分たちが「一般人」「正常」であるという意識を持っているため、主人公のような「変な人」「異物」に対して、「まだ結婚しないの?」だとか「ずっとアルバイトとか大丈夫?」といった容赦のない言葉を毎回ぶつけてくる。彼らはまるで社会において「正常」であれば、「異物」を攻撃する免罪符を持っているかのような言動をとる。

 

主人公は、極端な形ではあるが「合理性」を行動の基準としていて、最終的に行き着いた自分の居場所は、その「合理性」が重なる「コンビニ」だった。それに対して、主人公の友人などは、社会における「正常さ」「普通さ」というものを基準にして行動する。もちろん彼らの居場所は「社会」である。主人公が「コンビニ人間」であるならば、彼らは「社会人間」といえるかもしれない。

ちなみにコンビニ人間と社会人間が食い違いを見せるのは、社会は合理性とともに不合理性も内包しているものだからである。

 

 

・コンビニ人間と社会人間

 

この感想では、最初に「極端な人たちのお話」と書いた。自分としては、主人公にしても、その周りの人にしても、極端だな、と感じた。それと同時に現代に生きる人はどちらの方向にも行ってしまう危険性を持っていると思った。

「合理性」は近現代社会におけるキーワードの1つだろうし、人やモノを「合理的」と表すときは大体いい意味で用いられるだろう。しかしそれを突き詰めると、この主人公のような状態になってしまう。ちなみに主人公は、中年独身フリーター女性として「異物」となってしまった自分をもう一度社会に溶け込ませるために、バイトの同僚だった男性と同棲をすることになる。しかしそれで「社会人間」になるのかと思いきや、彼女は社会に含まれる不合理や、それが自分の場所であった「コンビニ=合理的な場所」に侵食してくることに耐えきれず、また「コンビニ人間」に戻ってしまう。

もちろん周りの人間の意地の悪い行動が原因でもあるのだが、この主人公のように自分の中の基準だとか合理性を大事にするあまり、他人との関係を構築しない、自己愛的で利己主義的なところも原因なのではないだろうか。amazonのレビューなんかを見ていると、主人公への共感や社会の「普通」に対する批判が書かれていた。もちろん主人公はかわいそうな存在でもあるのだけれど、このような人間ばっかりな社会は嫌だなあ。

 

社会人間のほうもちょっと行きすぎだ。人間は社会的動物であるから、社会における「普通」や「一般」が尊重されるのは分かる。ただ、それはなぜ尊重されるのか、理由を認識したうえで判断、行動しなければならないのであって、「社会的にそれが普通だから」といった思考停止状態で、社会における「異物」を攻撃するのはあってはならない。「それが普通じゃない?」といった考えで、自分の中の「普通じゃない人」に自分の考えを押し付ける。よくあることではあるが、もう一度自分の言動を振り返るべきだと思う。特に横並び意識が強い日本人は要注意だろう。「普通」が異様に重要視される社会というのもまた息苦しそうだ。

 

突き詰めると、社会人間のこの考え方も、コンビニ人間の合理性への一種の強迫観念も、対立しているようで結局は自分の考えを押し通そうとする、ほとんど同じ考え方なのだろう。「普通」だろうが「異物」だろうが、やっていることは結局同じという皮肉。

 

そしてもう一つ、両者に共通するものが「社会」というものに対する意識の強さだ。社会人間は言わずもがなだが、コンビニ人間の主人公も何とかして社会に溶け込もうとする。そこまで大事な社会とはいったい何なのだろう。社会の「普通」とはどれくらい重要なのだろうか。社会は「異物」をどこまで受け入れるべきなのか。